色々と書きたかったり

するのですが、やはり知っている人が見てるとなるとあまりぶっ飛んだ事は書けない訳でして、でもそうなると
所詮書き手の自慰行為であるブログの存在が根底から覆されてしまって、全く自分にとっても意味の無いものとなってしまうわけです。
自分の考えを知ってもらいたい、という所と、そこまで踏み込んで欲しくないと、いうところはあると思うのですが、
詰まるところそれを操作できるのは自分だけなのであって、どれだけの情報を書き込んでどこまでの情報を出さないかという弁は自分にあるわけです。
他人にブログの存在を知られると、その弁の開け閉めを自分でやらなければなくなるのでとても面倒に感じますが、どこか誰も知らない所で
好き勝手書いてても、その情報の弁を相手におしつけるだけであって総量としてのメンドクササは結局変わるところは無いのです。
恨み辛みは綿流しにでもすればいい。
それがダメなら酒に流してしまえばいい。
どこまで行っても、結局自分の弱さにぶち当たるのであれば、最初から形振り構わず全開でいけ!るほど人は強くないので困っているわけですが。
何でダメなの何でそうなの何で気づかないの何で分かってくれないのとなんでなんでなんでと繰り替えす甘い生活もいいです。ちなみに私はそっちのほうが好きです。
相手の理解にすがって、頼って、もたれかかって分かってくれる人にぎゅーっとするのが好きです。自分の思った事をたまたましてくれた人にその場ばかりの感謝を込めて。まぁ
そんなことすればどんどん孤立していくんですけどね。あはは。っつーか自分でも引くわ。


それでもそんなことをしてでも心が砕けてしまう人は世の中には居る訳でして。
楽とか愛とか喜とか恋とか、プラスは必ずマイナスを生み出して成立していることをもっと早くに気づいていれば、凭れ掛かって寄りかかりすぎた自分をもっと早く見つけられたのにと思う嫌思わないけど。
相手が我慢して耐えて笑っていた後ろにはどれだけの自分の怠慢があったのだろうと今思うと激しく自分を罵りたくなりますか?なりません。
どんな事でも受け入れてくれる器など、そんなものありゃしません。あったとしてもそれは錯覚蜃気楼。物の形が無ければ幾ら注いでもナミナミ満たす事は無いでしょうよ。


私は今でも昔好きだった人を好きなのですが、どうして自分は一人なのだろうと考えた時に
自分を只管責める言葉が頭に浮かんでくるのです。
あの人はあんなにも優しかったのに何故今私は一人なのか。考えるまでも無く自分が馬鹿で阿呆でタワケ!(愛知風)だったのです。
泣いても後悔しても誤っても謝ってもすがり付いても突き放されてそれでも一人で生きるというのは結構大変です。いや、大変っていうかまぁそんな事を忘れてさせてくれるくらい忙しいので構いませんが。
きっと元の鞘に収まるなら全てを投げ打ってでも私は傍に行くでしょうね。たぶんいやきっと。


と、まぁ酔いに宵に任せて書いてみるとこういう意味不明な文章が出来上がってくるので知ってる人には見られたくないのですが。
それでも冬にはオリオン座が輝いている夜空を見上げれば、正直そんな事どーだっていいよねって思えてくるのも事実です。