体にイイ情報の摂り方

http://s03.2log.net/home/nohome/archives/blog177.html (名も無き草庵)


みんながマスコミ不信になったきっかけ というスレタイみたいですね。
これを読んでみると本当に興味深い。
なので思いついた事をつらつら垂れ流し。


情報というのは必ず発信源があります。誰かが事象を観察しなければ「出来事」は存在しません。
観察するのはもちろん人間です。
例え定点カメラからの情報垂れ流しであっても、置く場所やカメラの向きetc.に設置者の意思が反映されるので、人間による観察と同義であると言ってもいいでしょう。
といいますか、主観の入らない観察など情報として意味を持たないでしょうし。
まぁ、とにかく観察者は、その情報に手を加える事ができます。それは意図的でも無自覚にでも。です。
観察された瞬間から、事象は「観察されるもの」というレッテルが貼られ、事象側にこれまでに無い意識思考が付与されてしまう時点で、ある程度の変化が起きてしまうのは仕方の無い事です。
逆に、事象−観察者という絶対の一対一の関係である為、その情報は観察者の主観という旗印によりどのようにも形を変えることができます。


現存する、いわゆる「マスメディア」は観察者によって既に歪められている事象をさらに「自社」というフィルタによって歪めて、情報と称して無差別に放流しています。
記者(観察者)による情報がメディア(情報の受取兼社会への提供者)によって流されているわけですね。当たり前の事ですが。
そして、このメディアというフィルタがどうにも酷い。っていう話です(長かった)。


情報化社会なんて言葉が出始めた頃は、新聞は一社だけでなく幾つも読みなさい、位の注意で良かったものです。
読売は右目を瞑って、朝日はテレビ欄から読み始め、毎日は裏を透かして、日経は八ッ折りにして…とかw
しかし、テレビのニュースが視聴率という鞭によって悪い意味で頑張りだしちゃって、迂闊に見れなくなってしまいました。
厄介なことにテレビというのは、こちらが何もしなくても情報を提供してくれるので新聞よりも遥かに影響力があります。
テレビを見ない、というレアな人種は犀川先生くらいなものです。


情報を目と耳から入れてくれるので時間の無い現代人には大変便利ですけど、その提供形態は縦の流通=リアルタイムである為比較ができません。
ある一つのニュースを見た場合、それがその事象に対する強烈な印象になってしまいます。
視覚&聴覚から仕入れた情報を払拭するのって大変ですよねー。それが第一情報なら尚更。


このスレに書かれている事からは、信じていたモノに裏切られた悲しみと、嘘を信じていた自らへの嫌悪が感じられます。
まぁ実際それだけの裏切りをしたんですけどね、メディアは。
2chとか個人ブログに移行したくなるのも分かります。事象からはもっとも遠い情報ですが、比較対象がそれこそ溢れんばかりにある。それが安心できます。
そう、今のマスメディアには安心できる要素が何一つ、ない。もうそれ程までに信頼は失墜しているのです。


情報の入手は最早必須というか不可避の事ですが、簡潔にまとめられた物を手軽に、という甘えが許されない時代ですね。
ネットの普及により、一個人の意見から名無しの意見、企業の意見そして海外メディアの意見etc.
扱いきれないこの情報の海をどう渡ればいいのか、その方法論の選択はまさに自己責任なのです。
その意味では、ニュースステーションを盲信するというのも強ち間違いではないのです。
全てにおいて懐疑的であるのは盲信と変わらないと私は思います。


そうそう。
何も信じられない時代だからこそ「あるあるwww」っていう笑いにみんな惹かれるのかな。
自分の体験からくる感情の共有、共通の記憶認識体験。最近のお笑いのネタってそんなんばっかだよね。
でも、自分が信じられるものが他人も理解してる(しかも明確に言葉にしなくても)っていうのは至上の安心感だろうなぁ。