結局。

結局、苦しい事を強いられている人間は多少なりとも美しい思い出なんかがあったりして、其れを糧に今の自分を耐えていたりするのであろうが
つまりは西瓜を食べる時に塩を塗す様に多少のエッセンスが自分自身を引き立てるのであることを知りつつ苦痛を甘んじて受けるのである。
しかし、それでさえも上者から見下げた結果論であり、苦しいことは苦しい、辛いことは辛いという極自然で当たり前のことさえも気付かない。
悲観する己の矮小さを思い知らされるだけでなく、柔らかな真綿で首を締められる回りの温さも又、弱い自分という生ける屍を想起せざるを得なくなるのである。
只生きているだけでは駄目なのか。唯生きているだけでは駄目なのか。
そう口にすることすら、もう取り返しのつかないことだとは分かっているのである。だが、止めることはできない。
弱いと言われても下らないと言われても死ねと言われても譲れない自分の弱さを認めた信念がある。
自分の醜さや生き汚さをしっかりと受け止めて尚、それを甘えに使ったり逃げ場に使ったりする自分に憤りを感じるのだ。
それすらも理解している。だからこそ逃げ道の無い、真っ赤な紅い空間にずっと閉じ込められている。
助けられない手を伸ばせない手を伸ばさない救われる意思も無いもう生きたくないし死にたくない。
そんな絶望とは無縁の死した肉塊に対して、何か言葉を掛けられるのであろうか。
言葉に乗せる為の様々な感情を受け付けない馬の耳に対して、人間はなにをすることができるのか。
いや、そもそも生きる価値などないのだ。留まってぐずって拗ねている、そんなモノに対して何かすることもない。
それを、ソレは理解している。どんな情報をも手に入れて、自分を際限なく手の付けようの無い所まで追い詰める。
だからこその死。受け付けない死。届かない死。意味無い死。
笑う笑う笑う。
生かされることも無く死に急ぐ自分であるなら、多少は空き缶拾いなどもするに違いない。
死に急ぐ自分であるなら、多少は空き缶拾いなどもするに違いない。